団員からのメッセージ「私の思い出の一曲」
平成12年12月に結成25周年事業として制作したCDの 別冊から収録しました。
貴方と夜と合唱と「防府グリークラブの目覚め」
祖父が大正時代に新築した時は,当主の書斎であった部屋も、本棚、応接セット、風景画の額縁が順々に追い出され、ピアノを始め諸々の楽器が鎮座ましまして、今では、もう、まったく音楽室になってしまっている。
二十五年前になるのか、この部屋で、男声カルテットを歌おうと、関学のOB達と市役所の合唱好きが夜な夜な集まった。
松広君が関西学院大学グリークラブから男声合唱曲を。バリトンの私が関学時代に集めた聖歌隊の宗教曲や合唱曲ゴールデンゲイト・カルテットの楽譜、バーバーズショップ歌集。山田牧師の讃美歌。リードテナーの岡部君が山大メンネルコールの楽譜と、各自が持参した曲を片っ端から歌った。
今のような立派なコピー譜は無く、手書きのガリ版刷りの楽譜、せいぜい青焼きのコピー譜に、各自が赤鉛筆で書き込みをしながら、我々独自の曲づくりをしていった。金子君の書く楽譜は彼の性格を表して読みやすいものだった。「バビロン・フォーリンフォリンフォリン」毎週金曜日になると、わが家に集まっては、青春を謳歌した。
学生時代トップテナーを歌っていたが、タバコとお酒で声替わりしたので、リードテナーかバリトンを歌おうと思っていたのに、何時の間にか私はピアノ伴奏担当になってしまっていた。カルテットがダブルカルテットになり、所帯はどんどん大きくなっていった。 以後は記念誌を参照。
防府グリークラブの輝かしい道のりは、今後も続くと確信している。何故って歌が酒くらい大好きな、元気人間の集団だから。 乾杯!!
防府グリークラブ25周年記念CD作成にあたって
第5回の定期演奏会の横断幕看板を、6回と書き替え、小さいステージに吊るす作業の時の情景を鮮明に思い出す。
私とグリーの出会いは、その演奏会の数ヶ月前である。八王子の教会のクリスマスキャロルに協力して、その見返りとして発表の場を持たせて戴く、という按配だったと思う。今から二十年前のことである。教会に集まった人が手に手にローソクを灯し、私どもと讃美歌を一緒に歌う。そのあと、我々の演奏を聴いて戴く。そういう形のこじんまりとした演奏会だった。メンバーは九人。ふたむかし前のことだから、メンバーの声は今の声より張りがあり若々しく勢いがあった。そのときのメンバーの地道で根気強い活動と心から合唱を愛する心情が、今日の素晴らしいグリークラブをかたち創ったと言える。後に加わったメンバーも、良き伝統を受け継ぎ希少価値のある見事な男声合唱団をつくりあげた。
私としては、最初、客演指揮のつもりだったが、どういうわけか毎年毎年を重ねて、今では常任指揮者みたいになっている。メンバーに多くの迷惑をかけているにちがいないと思う。同時に今までこの未熟な私を指揮者として受け入れてくれていることに対し感謝と責任を感じている。
グリーの良いところは、それぞれのメンバーの誠意と良心に支えられているということである。お互いの立場を尊重しながら紳士的な中に親愛の情が通いあっている。しかも、互いに強要や束縛をしない面もあり、これが合唱を愛する心と相まって素晴らしい雰囲気をかもしだしていると思うのである。このCDが25周年の記念となり、さらに飛躍へのステップとなることを願っている。
平成12年2月28日
歌いっぷりのいい合唱団の輪を
歌い紡いで25年、今年で51歳になった私は、これまでの人生半分近くを防府グリークラブと共に過ごしてきたことになります。
コーラス好きのものが何人か集まって発足したこの会も、歳月を経て30人を越すようになりました。25年の間には、転勤で遠方に移られた方、退職などで帰郷された方、愛唱歌を胸に他界された方もいらっしゃいますが、いくら遠くに離れていても、心のハーモニーで結ばれていると思っています。
素晴らしい演奏、完璧なハーモニーは、私たちがいつも目標にしていることですが、それ以上に、毎週の練習で楽しいときを過ごし、心のハーモニーが深まっていくこと、このことこそがグリークラブのモットーだと思っています。その意味で、山崎隆久先生に出会えたことは私たちにとって、とても幸運なことでした。
グリークラブが今日を迎えることができたのも、団員の努力はもちろんですが、たくさんの方々の応援のおかげと思っています。最初にジョイントしていただいたサルビアコール、「もしも明日がコンサート」の新田女声合唱団、ギタークラブ・アンダンテの皆さん、演奏会の度に、ご協賛いただいた方、快く練習会場を提供していただいた方、そして我々の演奏会に度々足を運び、拍手で声援をしていただいた方、ありがとうございました。
25周年はグリークラブにとって、誇りでもあり、感謝の歴史でもあったと思っています。
これからも、歌う楽しさいっぱいの、歌いっぷりのいい合唱団の輪がどんどん大きくなるように、歩んでいきたいと思っています。
白 鳥
誰でも知っているサンサーンス作曲のバレエ音楽の『白鳥』ですが、これを男声四部のスキャット(A・O・U・ハミング)で歌っちゃいました。
学生時代の定演のアンコールで歌ったのが、とても印象に残っています。
これをそのまま防府グリークラブで演奏し、素敵なハーモニーが出来てとても幸せでした。ちなみに林雄一郎編曲のこの曲には本来の歌詞がありましたが、アンコール曲に取りあげるために、畑中良輔先生という大変えらい先生が即興的に作詞(?)されたのがこのスキャットです。
曲想にマッチした擬音による格調の高い曲に仕上がっています。
涙は真珠(三重)
渡辺知明さんのフルート伴奏で、人魚が美しい海で戯れているのが想像できるくらい、素晴らしいものでした。
グリークラブで歌った『にほんのうた』シリーズの中でも特に印象に残っています。
グリーは文化の発信源
平成5年から防府グリークラブの指揮者の栄に浴しました。グリークラブの皆さんのご支援を得て、この大役を果たすことができたことを心からお礼申し上げます。
防府グリークラブの存在価値を私なりに感じている3点をあげてみましょう。
その1は、言うまでもなく「男声合唱のハーモニー」をつくりあげていくことです。端的には、毎週の練習の積重ねによって完成されていくものです。
その2は、グリークラブの演奏の相手に、聞き手があります。この聴衆に「安らぎ、癒しの気持ちを感じていただける」かということです。難しいことですが、このことはグリークラブのメンバーが揃って良いハーモニー作りを目指す、聴衆に合唱を理解していただける言葉を含む音楽の要素を作り上げ、提供していこうと言う意識をもつことが大切だと思います。
その3は、(一番大切なことだと思うのですが・・・)防府グリークラブは「文化の発信源」であるということです。
私たちは25年という長い伝統を土台に男声合唱のピラミッドを形成し、さらに前進していこうとしています。
音楽好きの者の集団が、音楽を通してお互いに通じ合いハーモニーを大切に育てていく・・・・・・。そんなグリークラブでありたいものです。
女ひとり
恋に疲れた長い髪の和服姿の女性。
孤独な女がひとり寂しく、古都を歩いている・・・・・・。
グリーでこの曲を歌ったとき、多感な青春時代の回廊を歩いている錯覚に陥りました。
夏の想い出
『夏がくれば思い出す。・・・・・・」の江間章子先生の名詞で始まるこの曲は、今年亡くなられた中田喜直先生の作曲された、21世紀に歌い継がれる叙情歌です。
1949年NHKで初めて流れたこの美しい歌で、群馬、福島、新潟の3県にまたがる尾瀬の湿原が有名になり、現在は年間60万人以上のファンが集まるようになったということです。
この歌を口ずさむと、まだ行ったことのない尾瀬沼の景色が目の前に広がってくるような、郷愁を感じさせてくれます。
サリマライズ
結成当初から五年間ぐらいは愛唱曲の定番となっていた「サリマライズ」です。私は未経験で入団しましたので、ベースパートのオクターブの動きなどが、楽に覚えられるこの歌で合唱の楽しさを学びました。岡部さんの手書きの楽譜を青焼きしたもので練習していましたので、誰の作詞・作曲かということを、私自身気にも留めず、つい最近まで知らずに来ました。
ところが、この25周年記念事業としての曲を紹介するにあたって、図書館で調査してもらったところ、次のような事が判りました。
日本語教師永島千代子さん(東京都武蔵野市)の調査でオランダ民謡との定説でしたが、実は今から150年前の米国南部の農園歌だったものが、英国~南アフリカ~オランダと伝わり、第二次世界大戦でシベリアの捕虜収容所でオランダと日本の交流で、元神戸中央合唱団指揮者の中村仁策さんが巻きタバコの紙に書き留めて帰国後森田久男さんにより歌詞をつけられました。原曲は女性サリマライズへの恋慕の情と別れを表していましたが、友人との別離と出会いの歌となったものなのだそうです。
バビロンズ・フォーリング
ニグロスピリチュアルで、聖都バビロンの崩壊を歌った曲です。
私が合唱と出会った二十三歳のときに歌った曲の中の一つで懐かしく思い出深いものです。昭和33年9月14日に松崎小学校の旧講堂で防府フロイント・コールの第4回発表演奏会(昼夜2回)の第二ステージで田中孝二郎先生の指揮で男性21名で歌ったのが私の初舞台で、緊張して手足を震わせながら歌ったことを今でもはっきりと思い出します。
当時防府には混声のフロイント・コール(田中孝二郎先生指導)と男声で初代の防府グリークラブ(鈴木順二郎先生・・・現在の作曲家鈴木淳氏指導)の二つの合唱団があり、私はそのどちらにも入団させてもらい青春の日々を大いに楽しんでおりました。グリークラブのトップテナーには、現在のグリークラブの指揮者である清澄邦夫さんがおられました。この曲を聞くと当時を思い出します。
この録音は昭和49年の文化の日に防府市公会堂での新生防府グリークラブの産声だそうで、七名によるコーラスです。ピアノ伴奏は今の防府グリークラブの生みの親とも言える、桑原一朗さんによるものです。
はるかなる山の呼び声
アラン・ラッド主演の西部劇シェ―ンを見たのは、私が21歳の時、大林寺(今の中央町サティ付近)にあった三洋会館という映画館であった。藤本町の山本酒店で赤玉ポートワインのポケット瓶を買い、懐にしのばせて映画を見ながら呑みました。あの甘い酒がまるでロシアのウォッカのように熱く腹の中にしみ込んで、妙に映画のシーンと結びついて脳裏にきざまれて、思えばあの時から酒の魔力にとりつかれた私です。
ハイ・ヌーン
映画『真夏の決闘』が上映されたのは僕が中学生のころだったと思う。ゲーリークーパー扮する保安官が悪漢との戦いを決意してから正午までの一時間半、映画の進行時間も同じ。最後のクライマックスまで画面に引き込まれたが、この主題曲ハイ・ヌーンも、歌手テックス・リッターの低音と乾いたリズムがいかにも西部劇という感じで印象に残った。
その後、学生時代に下関でリヴァイバル上映されたときに友人と観に出かけ、学生寮に帰って、ウィスキーを飲みながら映画談義をしているうちに初めてのアルコールに酩酊し、とんだ二日酔いになってしまった。
今ではウィスキーとの御縁も無くなったが、この曲を聴くたびに、ぐるぐる回る寮の天井と、良き友の顔を思い出すのである。
きよしこの夜
昭和62年4月加入の小川(きよし)です。名前と曲名が同じというとで、こじつけて、この曲を選んでみました。
グリークラブ加入のきっかけは、清澄さんに誘われて聖光園の『クリスマス・キャロルの夕べ』を聴きに行き、たぶん最初に聴いたのがこの『きよしこの夜』だったと思う。
比較的に歌いやすいこの曲を聴いて、これなら自分でも歌えそうだと思い、グリークラブの練習に参加しはじめた。それから早や十三年が経ってしまった。
新しい楽譜を渡されると、今でも階名を書き込まないと歌えないという状況です。歌唱指導の松廣さんの言葉に、ある曲を何度も練習して歌いこなして行けば、ある程度までみんな歌えるようになるが、その先は、その人の感性(その曲に備わっている感情をどのように表現するか)に負うところが大きいとのこと。スナックで教えてもらった。
この先、何十年かかるか判らないが、この感性が歌に出せるようになりたいものです。
ホワイト・クリスマス
グリークラブがこの曲を歌った頃は私はまだ所属していませんでしたが、町ではクリスマスが近くなると、事あるごとに、演奏されています。バラードでゆっくりとした感じのこの曲は私の一番好きな分類の曲です。そして特にこの曲について印象に残っている事と言えば、もちろん映画の中での事もそうですが、私の好きなプロデューサー デビット・フォスターの「クリスマスアルバム」の中の演奏が特に好きで大変印象に残っています。歌う度に、あのアレンジを思い出し、もしバック演奏を付けてもらえるなら、あのアレンジでと思いますが、むろん我々にはバックはないわけで、あくまでも私のイメージで歌って口ずさんでいるのです。
オー・ホリー・ナイト
三十年前、20歳過ぎの頃、学生グリークラブ時代の思い出がこの曲である。
神戸のある女子大学と合同クリスマスコンサートを開催したのですが、この曲をソロで歌った女子学生の声を今でも良く覚えている。美しい声と上手な英語だった。半年前の夏ぐらいから、みんなで練習を開始し、その年のクリスマスの夜、ある教会で信者の方々の前でローソク片手に数曲歌わせていただいた。
残念ながら、後にも先にもこの女性とは話すこともなかったので、顔が思い出せない。
長い間、合唱も忘れていたが、今年この曲に久しぶりに出会って、歌うことができ、若き日々のクリスマスソングを何曲か思い出すことができ、懐かしく思います。今後はグリークラブでいつまでも歌っていきたいと思います。
筑波山麓合唱団(茨城)
この曲は、私が防府グリークラブに参加して、一番記憶に残る局です。
平成4年の文化の日の防府市公会堂でした。この曲を歌いながら指揮者の回りをぴょんぴょん跳ねて・・・、指揮者の注文で多少はめをはずしたくらいが丁度いいと言われ、自分でも不思議なくらいとっさに飛び出したアドリブが観客に大いに受けて笑いをとったような記憶があります。テナーはカジカ、セカンドテナーはアマガエル、バリトンは、殿様ガエル、ベースはガマガエルの鳴き声の部分は各パートの音域に合っていてとても楽しくて、男声合唱で一度は歌ってみたい曲だったので、歌えてよかったと思います。
スーン・ア・ウイル・ビイ・ダン
この曲はテンポが速く、流れに乗って行けるのだが、いつも決まった箇所が来ると正しいのかどうか不安になる。
でも、この曲は最後がフォルテシシッモで全エネルギーを発散出来て、気分転換にもなり、いい曲だと思います。
昨年の定期演奏会で思わず自分でも感動して涙が出そうになったことが思い出されます。
筑波山麓合唱団(茨城)
初めてこの曲をデュークエイセスが歌っているのを聴いたとき、すごく新鮮でまた何と楽しい曲だろうと感動したのを覚えている。グリーでこの曲を歌うと聞いた時は、直立不動が定番のグリーの演奏に振り付けが入り、かけあいもあり、とてもユーモラスな曲ということで、今までとは違ったカラーが出せて、これはいいなと思った。私としてはベースソロの最初の音程に自信が持てない時があったりしたが、とにかく楽しく歌わせて戴いたことを思い出す。時には、演奏会の曲目に加えて欲しいと思っている。
潮風の中で(大分)
私がこの曲に出会ったのは、大学一年の時、ヴォイストレーナーだった大阪音大のY先生がイタリア留学に行かれるので、送別パーティーがあり、三年の先輩のY氏がギターで弾き語りをした時だったと思います。
先輩の歌唱力もすごかったのですが、いい歌だなと感動しました。
この歌詞のような大恋愛や失恋の体験はしませんでしたが、私が三年になってから、クラブの愛唱曲の中に入り、ソロをする機会が何度かありました。先輩のようにうまく歌えなく歯痒い思いをしたことを覚えています。『にほんのうた』シリーズの中で好きな曲の一つです。
僕たちの道を(愛知)
懐かしい名前を目にした。シャローム。曲目一覧表を見ていて、伴奏者の欄で見つけた。フォークソングの全盛期の昭和四十年代、市の勤労青少年ホーム活動の中に防府フォーク村が誕生した。シャロームは、そこのメインバンドというか、一番うまいバンドであった。そういえば金子さんも、一時期フォーク村ではボロというバンドのボーカルをしていた縁で、音楽のジャンルを超えての共演が実現したのだろう。
金子さんが、村からどこかに消えたと思っていたら、「男達の響き」の虜になっていた。
かく言う私も、フォーク村の村民時代があって、今も親しくお付き合いさせていただいていますが、数年前にグリークラブに所属し、彼とも再会し、今では私も男声合唱の響きの虜になって今日を迎えています。
懐かしいサウンドとコーラスの融合、このアルバムの中でも異色のアクセントになっています。
別れた人と(兵庫)
『にほんのうた』シリーズは昭和40年から東芝音楽工業で永六輔、いずみたく、デューク・エイセスが全国を実際に旅をして作られたた味わいのある曲集です。
多くの合唱団員がカルテットで歌った思い出のある曲でしょう。私が初めて合唱と出会った学生合唱団がワンポイント的に歌って好評を得ていました。今回の収録曲のうち三曲は、佐々木伸尚先生に同団が委嘱して合唱用に編曲されたもので、オリジナルとはまた異なった雰囲気を醸し出しています。哀愁を秘めたフルートの渡辺さんとピアノの吉武さんの実力にも助けられています。。
三十年前は・・・アダルトな歌詞の内容にも先生の名指揮にもついていけず、この年代になって神戸の夜の曲想に沿った表現が出来たと思う曲のひとつで、未経験の私に指揮までさせてもらいましたが、その原点は現在東海メールクワイアの会長の都築義高先生にあり、先生は今、名古屋から各地の男声合唱団に熱いメッセージを発しておられます。
今、私は山崎先生のダイナミックで繊細な指揮にシビれていますが、継続して歌い続けていれば、いつかこんな夢にも出会えるという例でしょう。
みかんの花咲く丘
幼年時代、浜辺近くの川沿いで育ちましたので、「かもめの水兵さん」「めだかの学校」などは実物を目にしながら歌を耳にしましたが、この「みかんの花咲く丘」という風景は土地柄から無縁でした。それでもLPを聴きながら幼な心の中で、その風景を頭に描いていたのを記憶しています。それが成長するにつけ想像の世界との出会いを追い求めていたんです。
ところが、数年前、広島県尾道の旅でついにそれを見つけた!映画の三部作のロケ地にもなったというその小路を歩きながら、自分が映画と曲の双方の主人公になって思わず完全に時が止まってしまったのである。
みかんの花咲く丘
私は岡山県で生まれ山口で育ちました。山口を出てからは全国を転々として三年前にふるさとに帰ってきました。
知人の紹介ですぐにグリークラブを知り、メンバーになりました。
生まれて初めての合唱団入りで不安がありましたが、現在も頑張っています。
標題の曲目につきましては、私の両親が尾道の出身であったため、小中学生の頃、親戚の家に行っては、魚を釣ったり千光寺の丘に登ったりした。尾道は青い海と空、海岸に広がるみかん畑。みかんは春には可憐な白い花をつけ、一面にほのかな甘い香りを漂わせ、秋には黄色の実をたわわにつけます。このような情景を思い浮かべながら、この歌にカンパイ!
夏は来ぬ
私が防府グリークラブに入って四年目の夏の日のことです。防府シャンピアホテルにて催されたディナーショーでグリーが歌うことになり、タイトルは『童謡唱歌の夕べ』で、その中にこの曲がありました。「卯の花の匂う垣根に・・・・・・」で始まる懐かしい曲です。メンバーのお宅の庭に咲いた、本物の卯の花を指揮者の清澄さんが、この花の由来を格調高く、お客様に説明され、また各パートの旋律を個別に歌い、最後に合唱して、男声合唱の魅力を披露されました。卯の花の香る、夏の季節感をグリーが醸し出す素晴らしいハーモニー、聴衆の熱い眼差しが渾然一体となった感動のディナーショーでした。
夏は来ぬ
私を知る多くの者がグリークラブに入ったことを伝えると大きな声で笑います。小学校高学年だったと思いますが、事もあろうに低音部を受け持たされて、冷や汗をかきながら二部合唱『夏は来ぬ』を合唱したのを覚えています。苦労の甲斐あって低音部をまあまあ歌えるのはこの曲だけです。
当時、私という少年は楽才に乏しく、自分でいうのも変ですが文才には見るべきものがあって、「卯の花の匂う垣根に・・・・・・・」という綺麗で簡明な詩の方に強い興味があったと思います。
振り返ってみれば、あれが最初で最後(?)の低音部との、また合唱そのものとの接点だったのです。長い間音楽と無縁でしたが、長じて酒の力を借りて挑戦できるカラオケなるものを知りました。音楽というものとの関わりが復活したのかもしれません
里の秋
この曲は、昭和16年12月にNHKのラジオ歌謡であったようであるが、昭和20年12月24日「外地引揚同胞激励の午後」という番組で初めて発表され、敗戦で肉親を案ずる家族がこれを聞きたちまち大反響を呼びNHKではその後「復員だより」という番組で、繰り返し放送されて広く浸透した曲です。
私たちは当時満州(今の中国)にいたので聞いたことがない。戦後引き揚げてきてどこで覚えたのか母は良く口ずさんでいた。母は60歳くらいから病床に臥していたが晩年は寝たきりとなった。そして痴呆が始まった。
母の生まれは兵庫県豊岡市、山陰の小さな街である。惚けた脳裏にはこの光景しかなく、心は女学生に戻っている。光景と歌とが調和するらしく、エンドレステープのように歌っていた。一緒に歌ってやると、すごいいい笑顔になった。
私の父は出征したまま還ってこなかった。母の心の中にはその思いもあったのかも知れない。
ふるさと
幼い頃、母がいつも口ずさんでいたのがこの『ふるさと』である。父は上海の同文書院という大学を出て、高等文官として旧満州国の官吏になった。正に青雲の志を抱いて海外へ雄飛したのである。
そんな父に嫁いだ母が、遠い異国の地で、戦中戦後の混乱の時代に抱いた思いは、故国の山や川祖父母や姉や妹、幼なじみ達のことであったのだろう。
昭和22年晩秋、戦後二年も経て故郷へ帰り着いた。当時のふる里は、多々良山には野兎がいたし、家の前の小川では鮒を手掴みに出来た。
昭和34年春、上智大学に入学するまで、ふる里で過ごしたのは十一年あまり、その後、父母の看護のために一時帰郷した数年間を加えても十五年に満たない。
「志を果たしていつの日にか帰らん・・・」と思いつつ三十八年。故郷を遠くはなれて都会で暮らしているものの方が、ふる里への思いは強いのではなかろうか。
昨年(平成11年)志を果たすことなく帰郷。ふる里は温かく山は青く水は清かった。ふる里はいいものである。
静かな湖畔
小中学校の音楽の時間に、輪唱の学習として、誰もが歌ったことのある代表曲ではないでしょうか。防府グリークラブでは年一回、メンバーと家族、仲間達を含めた、日帰り程度の小旅行をするのが恒例になっています。
平成7年には男声合唱組曲『柳川風俗詩』を歌う。ということで、風薫る梅雨の晴れ間の六月、総勢三十人ぐらいで出かけました。身内をつれて歌の仲間との「柳川」は、新鮮な気持ちが溢れていました。
現在は、時間的に厳しく、休部させてもらっていますが、私は、自然の草木や花や風景の中で安らぎを覚えますし、歌も、そんな豊かな気持ちになったときが一番楽しいもので、また、いつか童心にかえって、こんな歌を一緒に歌いたいものだと願っています。
冬の夜
子供の頃は北朝鮮に住んでいました。冬は本当に寒いんです。
この歌を聞くと「いろり」はありませんでしたが、「オンドル」で寝たあの頃のことを思い出します。
お母さんを主題にした歌を聞くと、夏は夏で暑くて寝苦しい夜には、カヤの中でうちわで扇いでくれた母の姿が浮かんできます。
お母さんの本当のやさしさを子供に見せてやりましょう。
ともしび
昭和三十年代、まだカラオケなんてものが無かった時代、歌声喫茶が全盛だった頃、赤いサラファンやカチューシャ、トロイカ、ウォルガの舟歌などとともに盛んに歌い続けられてきた、あまりにも有名なロシア民謡です。昭和三十一年頃デビューしたダーク・ダックスによっても歌われ、大ヒットした曲、おそらくこの曲を知らない人はいないのではないでしょうか。
ちょうどその頃、青春時代を過ごした私にとっても大変懐かしい曲です。
夕焼けこやけ
八王子市を走る国道二十号を西に向かうと途中の追分交差点、左は甲州街道右は陣馬街道に分かれています。陣馬街道を西に陣馬高原へと向かうと「恩方」です。童謡『夕焼けこやけ』の作詞者として知られる中村雨紅は、ここ八王子市の恩方で生まれました。雨紅が生まれ育った頃は、豊かな自然とそうした自然をうまく生かしながら暮らす山里の人々の生活の知恵がありました。
恩方は、作者が明治31年にこの地に生まれたのにちなんで「夕焼けこやけの里」と呼ばれています。
私たちは、あかね色に燃える夕焼け雲や、まあるい大きなお月さまを見たとき、だれもが美しいと感じ、そしてそれぞれが色々なことに思いをめぐらすものです。幼きときの思い出にたっぷりと浸っていただき、ややもすると私たちの暮らしの中から消えてゆこうとする山里の文化や、自然の大切さを思い起こしていただければと思います。
ジェリコの戦い
私は声を出すのが好きで、平成三年に入会させていただきました。三十五歳ごろから詩吟をやっていたせいか、生来のものなのか判りませんが、硬い声質でした。入会以来のボイストレーニングのおかげでしょう、大分軟らかな発声が出来るようになったと自覚しています。
大学時代グリークラブに籍を置いたことがありました音符が読めない、リズム感がよくない状況は今も変わりありません。ましてや合唱のハーモニーがどうのこうのといったことの言える能力は未だありませんが、先のステージで『ジェリコの戦い』を歌った時は、良いハーモニーだったのではないかなと初めて感じました。私にもハーモニーが判り出したのかな?と嬉しく思った次第です。
ジェリコの戦い
このメロディが流れると、大学時代、男声合唱団に所属していた頃の懐かしい記憶がよみがえります。当時、私たちの合唱団は黒人霊歌に取り組むことが多くこの曲もその中の一つでした。
忘れもしない1956年、西部合唱コンクールで常に一位であった西南大学のグリークラブを押さえ一位となり、全国大会へ出場した思い出があります。後にも先にも私たちの大学ではこの時以外に全国大会への出場のチャンスはありませんでした。
社会人となり合唱の機会は途絶えてしまいましたが、先輩に勧められ定年退職と同時に防府グリークラブに入りました。幅広い年齢層で構成されていますが、合唱に対する思いは一つで、毎週金曜日の夜の練習を楽しんでいます。
高校時代から合唱団に入部していた私にとっては、合唱団の活動は青春の一ページであり、またこれからの楽しみの一つでもあります。
スーン・ア・ウイル・ビイ・ダン
当のニグロの人々には酷かもしれないが、この曲には極限まで肉体を使った後の爽やかさとか、陶酔感が感じられる、と言えば、お叱りを受けようか。
昨今の建設現場では、昔と違い、重機の発達の所為で、所謂「根切り」等と称された肉体を原始的に使う穴掘りは余りないのだ。従って昔のニグロの人々が獲た様な陶酔感は、自発的に肉体を苛めるスポーツをやることによって獲られようが、願わくば、ゴルフとか定年後の定期的な朝夕の散歩等に使う体力を、植林作業(含・緑の十字軍)や、海浜・山林に散乱する大小のゴミ撤去作業の方に回して戴けたら、と思う今日この頃である。
スーン・ア・ウイル・ビイ・ダン
グリークラブに入って四年目になると思います。防府青年会議所時代、合唱組曲『佐波川』を歌う会の関係で、お世話になっていた同クラブにお誘いを受けて合唱経験は小学校の合唱団だけで、音符も解らないのに、ご指導いただき、何とかやっています。
入会して最初に熊本県芦北の公演旅行が一番の思い出となっています。南九州豪雨の直後にもかかわらず、町を挙げての協力で、よく聴きにこられたなァと感心しました。その時は、定演まで先が長くて、完成していない『月光とピエロ』を恐る恐る歌ったような気がします。
トップとして三年やりましたが、今年からバリトンです。『スーン・ア・ウイル・ビイ・ダン』は龍谷大の防府公演の時と、昨年の定演の二回歌いました。強弱、メリハリのある歌だと思います。アスピラートの音響が良いのか、この曲は防府グリークラブの持ち歌のベスト・テンに入るのではないかと思います。今年はバリトンパートを練習中です。
乾杯〔収録曲ではありませんが〕
私の思い出の曲といえば、三年前の熊本県芦北への演奏旅行の帰りに寄った、博多アサヒビール園で、ジョッキ片手に「あげよいざ杯を・・・」で始まったあの曲です。ホールいっぱいに響きわたる歌声に驚いた顔の他のお客さんや、従業員のみなさん「・・・わがともに幸あれ!」で終わり、ジョッキを重ねる音と同時に起こった拍手と大歓声!これぞ男声合唱だと、思わず聞き入っている私でした。
それ以来、私は宴会が・・・ではなく、その前に必ず歌うこの曲、『乾杯』がとても好きになりました。
今では「ステマネ」(新パートではありません、ステージ・マネージャーです)担当ですが、男声合唱の魅力に取りつかれ、まだまだ続きそうです。
編集後記
CDを発表しましょう、と言う話になって、総論賛成、その方法論になると、団員それぞれの思いは微妙でした。それでも一応この形になって完成しました。
団員の自己紹介も大所帯で、ステージ上ではとても出来ませんから、良い機会ですので、横顔を垣間見ることができる「私の思い出の一曲」という主題のもと、コメントを募集したところ、本当に意外なことがたくさん出て来まして、日常、一緒に歌っていても知らなかった部分がこんなにあったのかと驚くばかりで、まさに歌と共に歩いてきた時の重さを感じます。
大げさな言い方ですが、この広い空間世界の中で、巡り合って何十年も、共同の目的をもってやってこられたこと自体がめずらしい出来事。これからも紆余曲折があるでしょうが、小宇宙的な輝きを失う事なく男同士仲良くケンカもし、たまには後ろを振り返りながら、新たな一歩が元気に踏み出せるように、サポートしてくださる皆様と、ご来場の皆様に感謝しながら、一連の作業を終わりたいと思います。 ありがとうございました。
二十五周年記念事業 CD制作委員長 金子家忠